教員や指導者に求められる力    

 
・子どもたちをホールドする力
 ・子どもたちどうしの関係性やルールをつくる力
 ・子どもたちに気づきを引き起こす力
 ・子どもたちの気づきに気づく力
 ・子どもたちへ介入(支援)する力
 
・子どもたちの中で起こったことをとりあげる力
 ・授業でビルドアップされた気づきを大切にする力
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6)子どもたちの中で起こったことをとりあげる
 授業のねらいに応じた出来事が、子どもたちの中で個々の単位やグループの単位で発生します。教員はその一つひとつを心にとめ、それぞれの出来事の本質を見極めながら、全体の場で取り上げていきます。子どもたちによるふりかえりにより言語化された気づきや、授業中に起こった出来事をトータルして、子どもたちの気づきとしてビルドアップしていきます。教員は授業のねらいに引っ張られ、そのねらいが固定観念となった予定調和的な取り上げ方やミスリードに陥ってはいけません。

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 いよいよ、授業の中で最も重要であると言える「ふりかえり&シェアリング」に入っていきます。なぜ、最も重要であるかというと、ここで子どもたちの中で起こったことが、子どもたちに認知として降りてくるからです。「降りてくる」という表現は変に感じられるかもしれませんが、子ども一人ひとりが、自分の気づきを表現していくことで、学級という集団のもとに一つのものがぶぁーとあらわれます。教室という空間に、子どもたちの気づきの総体が降臨してくるというイメージです。気づきはねらいに沿ったものであろうが沿ってないものであろうが、あまり関係ありません。むしろ、教員がねらいとして想像できていなかったものが現れたほうが、深い学びにつながることもあるくらいです。そのようにして出現した気づきの総体に対して、子どもたちはそれぞれの認知を下していきます。このプロセスが、「認知」→「行動」→「評価」のスパイラルとなって、次の「行動」へと引き継がれていきます。次の「行動」とは、子どもたちの日常生活へつながることであり、次の人間関係学科の授業へつながっていくことでもあります。
 つまり、ここで教員や指導者が持たなければいけない姿勢とは、子どもの気づきを全て肯定的に受けとめるということなのです。しかし、現実問題として、実はこのことが教員にとってかなり難しいということがわかっていただけるでしょうか。学校の教員は、常に目標とねらいというgoalに縛られています。そして、それを達成するためのルールを子どもたちに守らせることが職務であるように思い込んでいることでしょう。これは、正しいことではあるのですが、実は、大きな弊害を生み出しているのです。それは、「目標とねらいに沿ったものだけが答えである」という固定観念です。指導案に定められたねらいに沿って、「子どもたちを導いていかなければならない」という間違った義務感です。子どもたちの気づきに対して、その気づきがねらいに沿ったものであれば、「そうやねぇ。よく気づきましたね。」と満面の笑みで答えるのですが、もし、ねらいからはずれたと感じた気づきや、想定外の気づきに対しては、「えっ」とか「そんなことはないでしょう。」とか、そこまでいかなくても「はい、はい」と軽く流してしまおうとするのです。このような雰囲気に支配された教室の中では、どういうことが起こってくるのでしょうか。子どもたちは、きっと「先生は、どんな答えを望んでいるのだろう。」と教員や指導者の顔色をうかがい、自分の気づきに正直になれず、間違っていると感じた気づきを無意識のうちに自分の中から消し去ってしまうのです。このような状態は、教員や指導者のモデル性が高い小学校の低学年くらいでは、ある程度必要かもしれません。しかし、それも「ある程度」というレベルです。一人ひとりの子どもの気づきは、一人ひとりの姿やあり様を反映したものなのです。教員や指導者がしなければいけないことは、その一人ひとりの姿やあり様を理解することからはじめるべきなのです。子どもたちの気づきを肯定的に受けとめることは、教員や指導者の一瞬の行動であらわすことができます。決して手間がかかったり大変な事ではありません。要はできるか、できないかなのです。そして、教員や指導者が子どもの存在というものを大切にしているなら、必ずできることなのです。

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